この場所は時を止めている。深い霧がそれを可能にしていた。 　子を亡くし悲しみに暮れる女は彼女だけでない。この世界だけでなく別の世界でも同じように子を失った親はたくさんいるのだ。 　いくら一人・二人の鬼女に人の心を取り戻させても夢風は消えることはない。その元を断たない限り。 　ヒミコは刀を抜いて切っ先をその水晶に向けた。しかし中々その刃で貫くことができない。 　任務なら、魔族を切り付けることも心を捨てることも、汚いことはたくさんやってきた。ためらいも無く切り捨ててきた。 　これはこの世界には良くないものなのだと分かっているが今回ばかりは反発する心が強くて体を動かすことができない。 　一時の迷いが死に繋がることもあるのに。 　なぜ躊躇っているのかはもう分っている。 「オババはあなたを待ってるよ…」 　昔々に母から聞いたオババの姉上のお話。妖部一族の長であるオババがどんなに強大な術を使おうともその破片に触れることもできなくて、消えてしまったと…。それでも尚諦めずに未だに探していることも知っている。 　震える手から刀が落ちて音を響かせた。 「あちしには…出来ないよぉ…」 　このままでは、前に進むことも後ろへ戻ることもできない。 　消えた皆だってこれが解決すれば解放することができるだろう。 『ユエの血を継ぐ者よ…ありがとう。貴方の心があの子の心を教えてくれた…』 「ヤエ…さん？」 『心優しき少女よ。我を解放してほしい…』 　長い年月が我の心を癒してくれた。しかし余りにも念が強いためそれを打ち砕く力が無いのだと。だからここを破壊して欲しいと…。 「ヤエさん…」 　ヒミコは落とした刀に手を伸ばした。 「うっ…」 　再び構え、そして。 　パァァァン。 「似ているわね、あの子に…」 　そっと伸ばされた手は、しかしとても生きている人のものとは思えないほど冷たい。 「ヤエさん…」 「これを…ユエ…あなたのおばあちゃんに…」 　手刀で髪を切り、そしてヒミコの手に乗せた。 「そして伝えて…」 　ゆっくりとヤエの姿がぼやけてゆく。 『もう夢風は現れることはないわ…』 『ごめんなさい、辛い想いをさせて…』 「ヤエ…さ…」 　さようなら 　そして 　ありがとう… 　彼女の最後の言葉に消えてゆく水晶の祠。轟音を立てながら霧が再び辺りを覆いつくした。 「さよなら…」 　再び視界が覆われヒミコは霧の中に取り残された。 「ねんねやねんね…何故泣くの、か…」 　一体この曲を作ったのは誰なのか。それは分らないけれど。母親から子へと引き継がれている子守り歌。 「ねんねやねんね何故泣くの 　ねむのお山で迷うたと泣く…」 　自分の声に重なって笛の音が響く。そして… 「ヒミコ…」 　ワタル…虎王…。そして海火子、翔龍子が姿をあらわした。 　ねむのお山で迷うた時は 　兄やの吹く笛 　姉やが唄えば 　優しい母さま迎えにござる… 　ヒミコが唄いおわったのと同時に、タケルが笛から口を離した。 　虎王がそっと側に寄て抱き寄せた。 「ヒミコ…よくやったな…」 　小さな体を優しく抱きしめて頭を撫でる虎王に、ヒミコは堪らず強く抱き付いた。 　聞こえてくる母の声。迎えに来てくれる仲間達。それはとても嬉しいことだが…。 「なんで、こんな悲しい事が繰り返されるのかな…」 「ヒミコ…」 　ヒミコは、声を上げずに泣いた。 　オババを思って。子を失った親たちを思って。 「あっ…霧が晴れます」 　翔龍子の言葉に皆が一斉に光の指す方へ視線を向けた。 　光りは皆を包み、そして景色がゆっくりと消えていった。 　気が付けば洞窟の入り口に立っていて、しかし先ほどまであった穴はすでに消えていた。 「終わったね…」 　ワタルがぽつりと呟いた。 「あぁ…」 　虎王がそれに答えた。 　もう迷いの夢風が発生することはない。それは良いことなのに、悲しさだけが残された。 　ヒミコは手の中に残されたあの人の髪をきつく握り締めた。 Ending Good by forever