とある１日の風景
ガラッ
「おおーい、ヤマト！」
勢い良くドアを開けて、太一が入り口で手招きしている｡よほど急いできたのか、
息が切れて肩を大きく上下させている｡
「なんだよ、太一｡まだ部活行ってなかったのか？」
「今から！それよりさ〜、...」
明日は朝練があるから、６時半に起こしてくれ、と頼むつもりだった｡けれど。
（なんだ？あいつ。なんでオレが、あんな目で睨まれなきゃなんねぇんだ？）
ヤマトの背後で太一を睨んでいる男子生徒。ヤマトのバンド仲間の１人だ｡
（確か......柿崎、とか言ったっけ）
太一が彼に睨まれる理由は一つだ｡太一と同じ想いを抱えていることに、そ
の視線から気付いた｡
「太一？」
急に黙り込んだ太一を不思議そうに見て､ヤマトは途切れた言葉の先を促し
た。そのヤマトの声に、ハッとして意識をヤマトに向けると、ヤマトが（太一か
ら見ると）可愛らしく首を傾げていた｡
きっとヤマトは彼の気持ちには気付いていない。そのことすら、太一を苛立た
せる｡こんな憤りをヤマトにぶつけるのは間違っている｡わかっているのに...。
「なんでもない｡それより、やっぱりオレ、今日はお前ん家行かないから」
「太一！？」
「じゃな」
ヤマトにだけ聞こえるように小さな声でそういうと、踵を返して走っていった｡
「なんなんだよ、あいつ...」
恥ずかしくて口には出せないけど、太一が来るのを楽しみにしていたのに。
「石田｡続きやろうぜ」
太一が姿を消して、問題の彼、柿崎がヤマトに声をかけた｡
「あ、あぁ...｡そう、だな...」
そうしてまた練習を始めたけれど、いつもの調子で弾くことは出来なかった｡
（なんで......急に...）
さっきから太一のことが頭から離れない。ここにきた時はいつも通りだったの
に、急に様子が変わったのは、一体何故なのか｡
｢...しだ、...い、.........石田！」
「え、...？」
呼びかけられてハッとする｡いつの間にか、ベースを弾いていた手も止まって
いる｡どうやら太一のことを考えるあまり、他のことを全て止めてしまっていた
ようだ。
「まったく、どうしたんだよ？いきなり調子崩して」
｢...悪い」
そう答えるヤマトの声にはいつものハリがない｡
「石田がそんなんじゃ、これ以上やっても仕方ないし、...今日はもう上がるか｣
メンバーの一人が、ため息交じりにそう言って、今日の練習はこれで終わり
になり、それぞれが家への帰途に着いた｡ただ１人、柿崎だけは、帰りかけて、
けれど途中で引き返していた｡
｢八神｣
｢......お前、...柿崎」
帰らずに引き返した理由は太一｡
｢八神｡石田を掻き回すのは止めてもらえないか？｣
「あ？」
サッカー部の練習が終わるまで待って、太一に初めに言ったセリフがこれ｡そ
れを聞いた太一の顔が不機嫌に歪む｡
｢お前が石田を掻き回すから、こっちは練習もまともに出来ないんだ｡いい迷惑
なんだよ。いっそ、近づくのを止めて欲しいくらいにな｣
そう言い終えて帰るつもりだった｡けれど恐怖が彼の足を縫いつけた｡
本気で怒ったところを見たことがあるのは、きっとあの特別な夏を共に過ごし
た太一の『仲間』達だけ｡だから、そんな太一を初めて見る者は、ほとんどが恐
怖に縛られて見動くことすら難しくなる｡
そう｡太一は怒っていた｡
光子郎や空といった気心の知れた『仲間』からの小言ならば、少々煩く思い
ながらも、ここまで怒りを覚えることはない｡けれど、こういうふうに他人から、よ
りにもよってヤマトのことを言われるのはどうしても我慢できない｡
太一は怒りをたたえた瞳で、けれど表情は綺麗に消して睨みつけていたが、
相手がそれ以上なにも言い出さないのを見て踵を返して家へと帰っていった｡
柿崎は、太一の姿が視界から消えるまで、一歩も動けなかった｡
マンションに帰ると、やはりと言うか、父親はいなかった｡時刻は６時少し前｡
父親がこんなに早く帰ってくることはまずないから、当然と言えば当然だった｡
それでも、今日は太一が来る予定だったから、一人の家に帰っても寂しいと
は思わなかった｡太一が来る時はいつも｡
なのに、いきなり来ないと言った｡怒らせるようなことをしたつもりは、ヤマトには
ない。心ひそかに楽しみにしていた週末が、なんでこんな事になったのか、どん
なに考えてもわからなかった｡
プルルル...、プルルル...、
制服を着替えることも、夕食の準備をすることもなく、ただぼんやりと過ごして
いたら電話がなった｡
｢ハイ｡石田です」
『ヤマトか？』
｢...太一」
電話の相手は太一だった｡なんとなく、声が冷たい印象を受けるけれど、それ
でも、声を聞けてホッとしている｡
｢太一、今日は...」
いきなりどうしたんだ、と訊こうと思った｡
『調子、悪いんだって？柿崎ってやつが言ってたけど...』
｢え？いや、そんなに悪いって訳じゃ、...」
ヤマトは続けようとした言葉を遮られて、その先を言うことが出来なくなった｡
『迷惑だから、お前を掻き回すなっても言われた｡』
「あいつが...？」
なんで、柿崎が...と思う｡太一が何を言いたいのかもわからないから、余計に
不安は募っていく｡
『だから、オレしばらくお前ん家には行かない｡今日も明日も、明後日も』
一瞬、ヤマトは何を言われたのかわからなかった｡次に、何を言っているのか
と思った｡空たちや、自分がどれだけ言っても太一はお構いなしに家に押しかけ
て来てたのに、太一にはほとんど付き合いのない彼からそう言われたから、だ
なんて。
『じゃぁな』
そう言って電話は切られた｡
ヤマトには、もう何が何だかわからなかった｡太一のことも、バンド仲間の柿崎
のことも｡そして、イロイロと考え込みすぎて、頭の中が真っ白になって｡
ヤマトはマンションを飛び出して、太一のいるマンションへと向かっていた｡
太一は荒々しく電話を切ると自室のベッドに横になった｡ヤマトにあんな事を言
うべきではない｡八つ当たりだとわかっている｡それでも、抑えられない。
ピンポーン...
ゴロゴロとベッドの上で転がっていたら呼び鈴がなった｡
｢太一〜、ヤマト君よー」
母親は今手が離せないのか、言うだけ言って呼びには来ない｡部屋まで来て
くれれば、逢いたくない、と断れるのに｡そう思いながら玄関へ向かう｡
ばきっ
ヤマトは、太一の顔を見るなり殴りつけた｡太一は、何のようだよ、と言う暇も
なく、殴られた勢いでよろり、と一歩下がる｡
｢なんなんだよ、お前は！嫌いになったんなら、ハッキリそう言えばいいだろ！？
そうしたら、望み通りに別れてやるのに！！｣
そう言ってヤマトがマンションを出て行くのを、太一は呆然と見ていた｡
｢た〜いち〜｡あんまり意地悪してると、ほんとに捨てられちゃうわよ〜？｣
どこまでも明るい母親の声に、太一はやっと我に帰った｡自分は何をしている
んだろうと思う｡あんなふうに泣かせたい訳じゃないのに｡ずきずきと痛む頬を軽
く押さえながら、太一は急いでヤマトの後を追った｡
太一を殴りつけて、マンションを後にして、けれど家には帰らずに、ヤマトは公
園にいた｡自分で言った言葉が頭から離れない。
嫌いになった
本当にそうだったら、どうしよう｡そう思うと涙が出る｡泣きなくなんかないのに、
止まらない｡
｢...っ、ぅ」
｢あれ？ヤマトさん？こんなことでどうしたん...、って、うわ！」
誰もいないと思っていた公園に、大輔がいた｡サッカーボールを持っている所を
見ると、ここで軽い練習をしていたようだ。
｢なんで泣いて......もしかして、太一先輩となんかあったんですか？｣
大輔の口から出た太一の名にピクリ、と反応するけれど、何も言おうとしない。
大輔は言おうか言うまいか迷ったが、こんなヤマトは見ていたくなくて、言うこと
にして、思い切って口を開く｡
｢そんなに泣くくらいなら、.........いっそ先輩と別れて、オレと付き合ってくれませ
んか......？」
大輔はヤマトの反応を待って、それ以上は口を噤んだ｡
｢............うそだ...」
ヤマトの反応を待っていたら、ようやく小さな声が返ってきた｡
「え？...別にオレ、嘘なんか...、」
「太一と別れるなんて出来ないのに......今でもこんなに、......好き、なのに...」
どうやら大輔の言葉はヤマトには届いていないようだ｡先ほどは、ただ太一の
名前に反応しただけか｡
たいち、たいち、たいち、たいち...
頭の中は、太一のことで占められている｡ヤマトは声を上げるでもなくただ涙を
流している。
｢ヤ...、」
｢ヤマト！！｣
これ以上見ていられなくて、声をかけようとしたら別の声が響いた｡太一だ｡駆
けよって来て、泣いているヤマトをきつく抱きしめる｡
｢バカヤロウッ、どこ行ってんだっ！！家にいないから、心配したんだぞ！！」
「え......？」
大輔は少し驚いた｡確かに２人のマンションはここから近いところにある。けれ
ど、ヤマトが公園に来てから、ちょっとしか時間は経っていない｡このわずかな時
間で、太一は自宅からヤマトのマンションへ行って、ここに来たのか｡
｢うるさい！太一には、もう関係ないだろう！？｣
ヤマトは太一の腕の中でもがき始めた｡抱きしめられて嬉しく思うのに、混乱し
た頭ではうまく考えることが出来ない｡
｢オレのこと、嫌いなんだろう！？別れたいと思ってるくせに！！そんなに優しく
すんなよ！もう放っといてくれ、......んぅっ」
ヤマトの叫びは、途中で太一の唇の中に消えた｡
｢ん、...んん、っ」
突然の太一の温もりにヤマトは戸惑った｡けれど太一の温もりが嬉しくて、ヤマ
トはその口付けに酔った｡
｢ん、...っふ」
｢ゴメンな｣
キスだけで力が抜けてしまったヤマトの身体を抱きしめたまま、太一は耳元で
囁いた｡
｢ちょっとヤな事あって、......そのイライラをお前にぶつけちまった｡間違ってるっ
て、わかってても......止められなくて｡だから、......ゴメンな。...ヤマトは何も悪く
ないのに、イヤな思い...させちまった、...」
「たいち...」
少し落ち着いてきた頭で整理する｡今の太一の言葉からすると、嫌われたとい
う訳ではないのだろうか？
「きらいじゃ、...」
｢嫌いになんかなる訳ねーだろ！｣
確かめようとした言葉を遮って、太一は一層強くヤマトを抱きしめた｡
｢嫌いになんか、ならねーよ｡オレはヤマトじゃなきゃダメなんだから｡だから...八
つ当たりなんかして、ゴメンな？」
嫌われたわけじゃないんだ...。
そう思ったら､また涙が零れた｡そして腕を太一の背中に回す｡
｢オレも、...太一じゃなきゃ...ダメ、だ」
「うん。.........帰ろっか。泊まっても...いいよな？」
「ん」
太一は、ヤマトの手を引いて公園を出て行った｡ただし、そっと大輔に目配せす
る事は忘れなかった｡
太一の視線を受けて、
｢ハイハイ、よけいな手は出すなってことっスね｡まったく｡結局お互いしか見えて
ないんだから、周りを巻き込むような痴話喧嘩は止めて欲しいよなー...」
と一人小さく呟いた｡
一件落着？